福島市にゆかりのある人物といえば野口英世博士というのが定説なのですが自分個人としての野口英世像を今回、blogに書いてみたいと思います。無論、自分は野口英世博士の研究家ではありませんが。
小学校の作文指導で尊敬する人は野口英世とやや判を押したように書かされた部分もありますが今となっては懐かしい話でもあります。
今回のPixtaの写真は白虎隊で有名な会津若松の鶴ヶ城の写真です。野口英世のゆかりの古城です。
自分も恩師に聞いたのですがどうも野口英世の祖先は文字の読み書きができなかったわけではないようなのです。昔は野口家は『無学な文盲な百姓』だったというのが定説だったのですがこれはやはり違うといわなければならないようです。今は『文盲』ではなくて『識字』が正しいのですが。
実像は野口英世の母親のシカが分家になり文字の読み書きができない農民だったが野口英世の一族は元々、かなりの徳川家ご用達の名医だったらしく、学問も良くできたが、明治維新の際、廃藩置県のあおりを受けて没落して貧しい生活を強いられたようだというのです。
たまたま分家になって母親のシカが読み書きができないだけであって周囲が優秀な人間が多かったのでこの辺もやはり伝記作家のフィクションでもあるようですね。会津藩の日新館は徳川幕府の直属の高度な研究機関でもあり、中国や朝鮮、オランダの薬学の資料もきちんと収集していたわけであり、野口家は先祖代々、日新館で高度な研究や学問を修めていたわけでありまして彼もその辺は意識していたわけでしょう。
恩師からうかがったのですが野口英世の自宅の庭に桐の木が植えてあったのだがどうも極貧の家にはないような構成になっていて全く無学の農民の状態から野口英世は医者になったというのはフィクションではないかとおっしゃっていました。はじめから名家で医学の素養はきちんとあったように思います。
囲炉裏でやけどをし、片手の障害を克服して医学を志したというのは伝記作家が書くのだがこれも史実とは異なり、野口英世は生涯、片手は直らない状態で障害者で研究を続けたのが真実です。
それだけではなく彼はかなりの生真面目な人間で吃音にも深刻に悩んでいた部分も多く、なおかつ、会津藩という中央政府に反抗した地域の差別感情にも何よりも深く苦悩する部分も多かたように思います。野口英世本人で被差別体験もかなり味わっていたのは確かです。
無論、手の障害という問題だけではなく、自分の出生地の苦悩もかなり深く味わう部分も多かったようにも思います。当時の中央政府の会津への差別感情はかなり強かったのは現実でしょう。
余談ですが会津藩の出身者は戦争でも白虎隊精神の旗の下で太平洋戦争で一番、過酷な戦場にたたされ、何よりも死者が多かったのが事実です。加えて徳川の末裔というエリート意識も強固で立身出世願望も薩長土肥や京都の日本のエスタビリッシュメントに肉薄する部分もかなりあったと思います。
白虎隊精神という言葉は野口英世の生涯の支えだったらしい。彼がガーナで黄熱病の研究に没頭するようになったのは一説によると会津出身の地域差別にも耐えられなかったのが真相だったのも大きいでしょう。
野口英世はある意味で手塚治虫先生の傑作『ブラックジャック』や『エレファントマン』のトリーヴィス医師と同じような憂鬱や苦悩をあらゆる面で熟知していたのかもしれません。
彼は自分が列挙したような様々な自分に降りかかる火の粉や懊悩の中で研究者として日本の近代医学に貢献した人間の一人であることは確かだと自分は思います。
アフリカのガーナでは野口英世は国で尊敬される人物の一人です。自分も野口英世はやはり偉大な人間であると思うことは今も正直、いってあります。黄熱病の治療はその当時の技術では残念ながらできなかったのだが。
ガーナといえばアメリカのオバマ大統領のルーツになる国ですが野口英世と重なって見えるのは偶然の一致でしょうか?
ただ、野口英世に関しては一部の研究者はアジア軽視の部分があるのではないかという部分もあるようなのですが。
一説によると日帝の植民地の下のアジア人に関しては野口英世は関心がなかった部分もあり、野口英世自身が朝鮮人や中国人には無関心だったのか、あるいは冷淡だったのか、はたまた自分の境遇になぞらえて実は同情していたのかは自分は知る由もないのですが彼の同時代のアジア観も資料として整理しておく必要もあるように思います。
今までの野口英世研究に関しては立身出世や西洋医学のカテゴリーで語らえてきたのだが彼自身は同時代のアジア人にどのような視点を保持していたのかも新しい野口英世像を研究する上で考える時代にもなったように思います。
福島に関連した自分の記事が何かに役に立てばいいのですが。

